人を見る、聞くを意識してみた

早速意識してみましたが、なんとまぁ残念な結果になりました。

これは長年、機械のようにしてきたツケです・・・

「お客様」として接するから、どうしても壁ができます。

かといって知り合いとも違うし・・・

結局のところ、深いつながりを恐れているんだと思います。

小学校の頃に、みんなと接するのは「平等」にしないとという想いがありました。そんなの無理なのに・・・理想を求めてしまいました。なんでも「あり」と考えていました。

クラスメイトに「嫌い」という言葉を使わず、代わりに「苦手」という言葉を使っていました。「嫌い」と思わないように、洗脳していったんだと思います。

「みんな平等」にするには、誰かと深い関係を築くと、他の誰かとの「差」ができてしまう。だから、深い関係にならないように務めた。そして、深い関係ではなく、あっさりした関係を楽だと思ってしまった。繋がって選んでしまうと、責任が生まれる。その責任を重く考えた。加えて、人に振り回されるのは面倒で疲れる。だから、距離を置こうとする。実際、誰かと遊ぶときに、自分から誘うことはなかった。誘われたら、基本「いいよ」と言って、そのときはストレスなく遊べた。だけど、社会人になってからは、したいことがあるときは、遊んでるときに内心「早く帰りたい」と思うようになった。いいことなのだろうか?

ただ、そのことを相手に言うことはないから、結局ストレスになっているような気もする。自分の否定的な言葉を言いたくないのは、嫌われたくないからでしょう。自分が気分を害する原因を作ることになりたくない・・・果てしない承認欲求ですね。

友達とケンカしたのは高校の時が最後です。社会人になってからはそんなことはなく・・・本心をぶつけたこともなく・・・あ、母親とは1年くらい前に初めてかな?本心を言ったけれど、結局わかってはくれないから、放置しています。

今までの人生でケンカしたことを思い浮かべたら、10回くらいです。他人へ本心をぶつけるっていう経験が少ないように思います。「嫌だ」もそうですが、反対に「好き」とかいうのも・・・

「嫌い」を「苦手」にしてきたから、反対の言葉も弱くなっているのかも知れません。

感じることができなくなっているのかも知れません。

「ありがとう」の軽さにも繋がるような気がします。

今は「みんな平等」なんて無理!と思っています。困っていたら助ける!と思える人とそうでない人がいるので。

だけど、「嫌い」という言葉は頭の中でも、口に出しても使っていないです。知らないところで使ってるかもですが・・・「苦手」とか「面倒」とかは思います。

「好き」と「嫌い」を選ぶには、やっぱり相手をしっかり見て、聞く必要があります。

どこかで選ぶことから逃げている自分がいます。

これは小さなことから選ぶ練習をしないとですね・・・

そして、自分の気持ちに敏感にならないとですね!

今日は結構憂鬱な気分で仕事をしていました・・・そんな簡単にはできないけれど、大事なことなので、挑戦していきます。