映画『聲の形』を観て

Eテレで『聲の形』の映画が放送されていました。一度映画館で観たのですが、ついついまた観てしまいました。裏番組のワンピースのエピソードオブ空島編を差し置いて。

 

身近な人に難聴や聾の方が居ないので、手話はできません。興味はありますが、知っているのは本や映画で観た「ありがとう」と「忘れた」と「覚える」と「またね」くらいです。

地域のサークルで手話教室なるものがあるみたいです。ふれあうきっかけはありますが、ある程度の知識を得ないと踏み出せないです。迷惑とか、自信がないとか、自分を良く見せたいとかそういうのが邪魔してるんだと思います。

 

さて、『聲の形』ですが、原作の漫画の本を持っています。原作でもかなり心を打たれるのですが、映像となると余計に感情移入してしまいます。繰り返し読んだり、観たりすることで、登場人物のそれぞれについて「こうだったのかな」「ああだったのかな」という想像と理解が深まります。それが合ってるかどうかはわからなくても、考えることが大事なんだと思います。

 

私は川井さんと植野さんが嫌いでした。今回映画を観ていると、植野さんの気持ちが少しわかった気がします。川井さんはまだわからないです。

「自分のことが自分で嫌い」と言う西宮さんに怒る植野さんは、「結局あなたは私と話をする気がない」と言います。

話すことに障害がある西宮さんは、自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手で、「ごめんなさい」で済ませてしまうことが多々あります。相手と会話をしようとせずに、「無理」と諦めてしまう。それはやはり良好な関係とは言えないのでしょう。それは現在の石田くんも一緒で・・・「西宮さんを自分の都合の良いように捉えていた」と言います。

聲の形』は健常者でも、本当の意味で聲を聞くことができないのでは?というのがテーマにあります。公式ファンブックにも「「ちゃんと見る」「ちゃんと聞く」というコミュニケーションがテーマ」と書かれています。

実際自分に照らし合わせると、仕事上でたくさんの人に会いますが、「ちゃんと見る」「ちゃんと聞く」ことはしていないです。とりあえず自分の思い通りに動いてくれていれば、ストレスなく過ごせるなぁという程度のものです。結構酷いですね。

自分の中にいるばかりでは、人のことを考えることなんてできないのでしょう。だれだって自分は大事ですが、人間は人と関わらずにはいられないです。自分のことも、人のことも考えられる・・・って難しいです。

よくアスリートの方のコメントで、「みなさんのおかげです」という言葉を聞きます。

私は人からの助けについて、気づいていないことが多いです。感謝の念があまりないです。自分は一人で生きて行くということを意識しすぎてるからだろうか。感謝されるのも苦手だし、するのも苦手って・・・困ったものです。

これもちゃんと人を見られていないのが原因でしょう。

自分のことが嫌いかどうかにおいては、ちょっと嫌いくらいです。昔、小学生の頃の悪童ぶりがこの歳まで尾を引いています。白に黒が混ざると灰色になります。その灰色はずっともう灰色のままで白にはならない。そんな感じです。

でも、過去はやり直せないから、今に生かす。それしかないから、悪童だった頃にしていたことは今はしていません。というかできません。恐ろしくて・・・ほんと馬鹿なことをしました。地元が苦手という理由の一つです。帰りたくはない地元・・・

 

1回目に『聲の形』の映画を観たときに、「ちゃんと見て、聞かないと」と思ったのですが、今回また観るまで忘れていました。

人をちゃんと見て、聞く。そして、自分を知る・・・人との関わりでしか、自分を知ることはできない。

今度は忘れずに実行したいです。

やること多いな~