『マンガでぐっすり!スタンフォード式最高の睡眠』(著:西野精治)を読んで

睡眠というのは、本当に重要です。

睡眠不足だと、頭が痛くなって、肩こりも酷くなります・・・

睡眠が1日に与える影響は大きいです。

以前にも睡眠の本は読んだことがありましたが、この「スタンフォード式」とは少し違いました。

自分が寝るときにしがちなことを見直すきっかけになりました。

良い睡眠がとれると、1日の動きが格段に良くなります。精力的に動いたり、考えたりできるようになるということです。

なんとなく「だるいな~動きたくないな~」と思える日が減るということは、反対にやる気のある日が増えるということなので、いいこととしか思えません!

時差出勤の多い仕事ですが、ある一定の睡眠時間を確保できれば大丈夫みたいなので、早速してみようと思います。

考え方も変わるだろうから、悩みも少なくなるんじゃないかな?と期待しています。

すっきり目覚める日がここ最近なかったので、そうなる日が楽しみです。

電車で船をこいでいる場合ではありませんね。

夜更かしダメ、絶対!

『科学的 潜在意識の書きかえ方』(著:小森圭太)を読んで

最近積み本が増えてきて、自分の方向性がはっきりしてないな~と感じます。

この本は、本屋さんで1度買い物を済ませた後に、再び気になって買った本です。

若干立ち読みしていて、あやしい感じがしました。

実際読んで、あやしかった部分もありますが、なるほどな~と思うところもありました。

気になったのは、脳が電波を受信していて、そのアクセスしているところが、人類のデータベースだそうで・・・どこかで聞いたことあるなぁと思ったら、「E=IRの2乗

」でした。合ってますかね。確かギガロマニアックスとかがでてくるノベルゲームだったように思います。「カオスヘッド」だったかな。そのゲームでは、人類のデータベースを使えば、人を思うままに動かすことができるということでした。

にわかには信じがたいです・・・そこだけ気になりました。

 

私は自分の「好き」とか「嫌い」に対して鈍感だと思っていますが、少なくない人たちもそうみたいです。

本当にしたいことをしているのか?

それを明らかにしてくれる本でした。

日頃自分が気になることを分析することが、したいことを見つけることに繋がるという内容です。

本来の自分が求めることは、嫌だと思うことの反対だそうです。

私の例で言うと、嫌なこととして、「周りのことを考えない行動」「自分のペースを崩されたくない」「自分の気持ちに気付いてくれない」「怒られたくない」「自分を否定されたくない」を挙げました。

その反対、即ち本来の自分が求めることは「周りのことを考えたい」「相手のペースに合わせたい」「相手の気持ちに気付きたい」「怒らない」「人を認めたい」になります。

結構いいこと求めてるじゃん~と思いました。

きっとみなさんがしても、いい感じになると思います。

自分が必要としているものへの問いかけもありました。

私の例としては、「安心感が欲しい。自分を信じてくれる。助けてくれる。自分を受け入れてくれる。認めて貰える」「気持ちを言葉で伝えられること」になりました。

ワンピースのアーロン編でのルフィがナミへ言った言葉「あたりまえだ!!」が一番残っています。ルフィはすごく大きいです。

あとは自分が充実感を得られることが何かについて考えました。

またまた私の例としては、「達成感」「人から認められること」「自分自身の発見と、人の心理への知識を得ること」「科学の進歩を感じること」でした。

これはちょっと変動あるかもです。まず夢中になったことを挙げて、それにプラスして、喜びがあったことを選ぶんですが、ちゃんと選べたかがわかりません。

自分が本能的に求めていることに正直に生きていくと、気付けるのかも知れません。

他人の思う通りに選択・・・世間一般を基準にして選択はしないように心がけないと、今までの考える習慣を変えられないです。自分の人生を生きるためには、変えないと!ですね。

 

こういった本は多分他にも色々読んでましたが、ちゃんと考えることをして来ませんでした。だから、「今」が「今」です。

この本の出会いをどう表すようになるかは、今後の私の行動次第ですね。

『顔の見えない僕と嘘つきな君の恋』(著:望月拓海)を読んで

人に自分の過去を話せるか。そして相手に受け入れてもらえるか。

悪いことであったら、とても勇気がいることです。

人には言えない過去があったりなかったり・・・言えない過去なんて、ない方がいいと思います。誰かに許して欲しいと懇願し続けたり、誰かのせいにしてしまうとか・・・

闇です。

気軽に手を悪に染めるのは、して欲しくないなと思います。

過去は良くも悪くも変えられないですから。

 

「誰かの為に生きることが、本人の生きる意味」というのは、やはり自分を生きていないんだなと改めて思いました。

小説の中に「誰かを愛して、その人に愛されたらいい」「自分自身は無理に変わらなくていい」「そのままの自分が愛して、そのままの自分が愛されないと意味がない」という言葉が出てきます。

私はこの言葉に救われた気がします。

愛する・・・か。そうなるには、やっぱりちゃんと自分の気持ちを伝えないとですね。

いつまでもわからないと言っている場合ではないんでしょう・・・!

 

本の言葉からは、大切なものを貰えますね。

「嫌い」という言葉を使わないことについて

ネットで「嫌い」「使わない」を検索したところ、子育てにおいて「嫌い」を使わなかったときの様子が書かれたブログが見つかりました。

その中には子どもが酷い言葉遣いをすることがなかったとありました。

 

違う意味で「嫌い」を使わなかった私ですが、確かに「死ね」とか「うざい」とかそういう言葉は決して使わなかったです。今、入力していても、使うのになんだか力の必要な言葉です。頭の中に浮かばない感じでした。そういう面では良かったのかな?と思います。

 

小学校の頃に何でも「いいよ」とばかり言っていた時期がありました。クラスメイトから「嫌だったら断らないと」と助言をして貰った記憶があります。でも、そんなに「嫌」と思ってなかったです。だけど、それからちょくちょく断るようになっていきました。誰かの助けになることとか、誰かに必要とされたかったのだろうか?

恐らく親から必要とされたかったんだろうと今なら思います。

くさい言葉ですが、「愛」を感じたかったのでしょう。

アドラー心理学には「親からの愛から逃れるには、自分が誰かを愛すこと」というものがあるそうです。

親に愛があっても、それが子どもに感じられなかった場合、その子どもは誰かを愛することができるのか?それが不安です。

私の母親は子育てにおいて長女を担当したから、父親に私を任せたようです。でも、記憶の中では特にそんな風には思いませんでした。なぜなら、基本一番近くに居たのは祖母だったからです。

両親との記憶で一番古いのは、保育園のとき、保育園が開いてないくらい朝早くに連れて行かれて、両親はどこかへ出かけたという記憶です。保育所の裏の駐車場の縁石に座っていた記憶。多分保育園の先生が来るまでさみしかったと思います。

小学校低学年のときに、たまに父親の車で二人でどこかへ行く時がありました。時々車の中で2時間くらい私だけで居たことがあります。おそらくボートレースに行って

いたと思います。

小学校3年の頃、母親から子どもを作るつもりではなかった。これから地球が滅んでいくのに、産んだ子どもが大変だと思ったから。結婚もする気がなかった。けれど、結婚したから、子どもを作った。という話を聞かされた。そのとき、私は自分が生まれてきたことが間違いだったと感じました。なぜそう感じたのか。恐らく母親の話し方にあったのだと思います。一度も「産んでよかった」という言葉を聞いたことがないから。存在意義の否定をされたと、この頃は感じたのでしょう。

その頃でも母親と接した記憶がほとんどありません。そんなものなのでしょうか?平均を気にしても仕方ないですが・・・母親は保育士をしていたし、帰りにどこかへ寄ってから帰ってくるので、20時を過ぎることが多かったです。仕事のストレスをお金を使うことで晴らしていたようです。今でもそうですが。

私は小学校の頃、結構な悪い子でした。自分の立場に危険が及んだので、悪いことはやめました。そこまでしないと、気付けなかった自分を馬鹿だと思います。この頃の後悔から、自分は汚れてしまった。幸せになってはいけないし、なれないと思い始めます。実際に、そう思うに値することをしてきたので・・・

中学校のときに、宿題で親に言いたいことを書いてくるというものがありました。母親がよく買い物をすることは、友達にも知られていました。「あそこでも見た」「ここでも見た」と・・・それが嫌だったし、多分まだそんなに母親を嫌っていた訳ではなかったので、早く帰って来て欲しいと書きました。でも、そんなことは伝わるはずもなく・・・そのまま何も変わりませんでした。

それから高校2年くらいまでは、何もしませんでした。高校2年のときに、たまに母親の財布からお金を盗っていました。その最後の一回に盗ったお金が、母親が出席する食事会の会費だったようで、怒られました。「恥ずかしかった」と。「そんなにお金が欲しかったの?」と聞かれました。本当はそんなに欲しいものではありませんでした。未だになぜそんなことをしたのか不明です。

最後の家族旅行の思い出は高校生の時でしたが、あまり記憶にないです。

社会人になってからの旅行の記憶もあまりないということなので、興味がないのだろうか?と思ってしまいます。心が揺れてないのかな・・・こなしているだけなのかな。楽しむって何だろうと思うことが多いです。

大人になってから母親とケンカをしました。お金の貸し借りについてです。実家には母親と姉と弟がいます。祖母と父親は他界しています。私は一人暮らしです。その私に何度かお金を貸してと母親から電話があり、貸していました。が、返すと言いつつ、また上乗せして借りようとされ始めたので、怒りました。すると、親の恩を理由に論理が破綻したことを言い始めました。私がお金を貸さなくなったのは、こっちでの生活のせい。私たち子どもに不自由のない生活、進路を提供してきた。私に対しては育児はしてないけど、お金は提供してきた。だから、お金を出せ・・・あげくの果てに、昔はそんな子じゃなかったと言われました。これが一番相容れないところです。自分の言うことを聞く人が優しい子で、そうじゃないのは悪い子らしいです。おまけに、私が一番自由だと言ってきました。

話をするって大切です。ここまで心が離れるまでに話をしてこなかったから、ツケが今来ています。かと言って、今から話せるほど私の心は広くありません。これからも多分しないんじゃないかな・・・

このケンカをするまで、人生においての選択肢を勝手に母親から見た自分の理想像を描いていました。実際にはそんなものなかったのに・・・子どもの親から認められたいという欲求は恐ろしいです。そして、現実は自分が納得するものではなかった。自分で選んだけれど、そこには一切「こころ」がなかった。大学も学校の先生になろうと思って入りました。が、教育実習に行き、自分から行動するような性格ではない自分には無理だと早々に諦めました。勉強もしてなかったし・・・体裁を保つために、試験だけ受けました。

今の仕事に就いた後、何度か警察官になろうと試験を受けましたが、いつも面接で落ちました。警察官はなんとなくで受けていたので、情熱はなかったです。情熱を向けられる仕事をしたいですが、今まだ見つけられていません。見つけられない時は、定時で帰られて、そこそこ貰えればいいです。ちょっと諦めの人生に片足を入れている感じがします。

 

ここまで書きましたが、私は自分の今の状況がすべて母親のせいだ!とは思っていません。選んだのは自分というのは変えられないから。自分の本心を全くわからず、また、知っていても知らないふりをして、隠して・・・そうして今の自分のこころを作ってしまった。言いたいことを言わず、我慢して終わる。漫画やアニメや小説によくいる、笑いたくないときに笑っていたり、もじもじしているだけの内気な登場人物です。引っ込み思案すぎて、イライラされるんだろうな。

 

よく親に恩返しをしなさいという言葉を目にしたり、耳にしたりします。が、今の私の状況ではできそうもありません。

愛のない親はいないらしいですね。あなたのためを思って・・・が時に子どもを攻撃してしまっているのは、そのままの子どもを見ていないからなんだろうか。自分の想像の中でしか考えられないですが。

行動が愛から発生するものでも、伝わらないと意味がない。言葉でも1%伝わればいい方らしいです。違う人間同士が分かり合うというのは奇跡なんでしょう。

ましてや、普段から接点がなければ、分かり合うなんてできません。

私は親を尊敬はできません。親を好きにもなれません。友達としても嫌です。実家に帰ることもありません。今は会いたくないですし。貸したお金を返してもらっても、無理です。電話は今のところ、お金を返してもらうまで、出ないつもりです。母親と向き合うのは、疲れます。

 

そんな風に考える私は、母親にはならない方がいいのだろうか。自分の中には新鮮な感情がないし・・・そして、もしも親の性質を受け継いでいるのなら・・・

反対に、私がこの流れを変えることができるのかも知れない。

やってみないとわからないけれど、後悔をするのかも知れない。

 

とその前に、まずは相手ですね。

そもそも、その相手を「好きだ」と認識できるのか不明・・・

本音を言い合える仲なんて、そう簡単にできないし・・・みんなすごいな~

そして、自分が幸せになってもいいと思えないと、ずっと献身し続けるような気がします。

心の問題は厄介です!

人を見る、聞くを意識してみた

早速意識してみましたが、なんとまぁ残念な結果になりました。

これは長年、機械のようにしてきたツケです・・・

「お客様」として接するから、どうしても壁ができます。

かといって知り合いとも違うし・・・

結局のところ、深いつながりを恐れているんだと思います。

小学校の頃に、みんなと接するのは「平等」にしないとという想いがありました。そんなの無理なのに・・・理想を求めてしまいました。なんでも「あり」と考えていました。

クラスメイトに「嫌い」という言葉を使わず、代わりに「苦手」という言葉を使っていました。「嫌い」と思わないように、洗脳していったんだと思います。

「みんな平等」にするには、誰かと深い関係を築くと、他の誰かとの「差」ができてしまう。だから、深い関係にならないように務めた。そして、深い関係ではなく、あっさりした関係を楽だと思ってしまった。繋がって選んでしまうと、責任が生まれる。その責任を重く考えた。加えて、人に振り回されるのは面倒で疲れる。だから、距離を置こうとする。実際、誰かと遊ぶときに、自分から誘うことはなかった。誘われたら、基本「いいよ」と言って、そのときはストレスなく遊べた。だけど、社会人になってからは、したいことがあるときは、遊んでるときに内心「早く帰りたい」と思うようになった。いいことなのだろうか?

ただ、そのことを相手に言うことはないから、結局ストレスになっているような気もする。自分の否定的な言葉を言いたくないのは、嫌われたくないからでしょう。自分が気分を害する原因を作ることになりたくない・・・果てしない承認欲求ですね。

友達とケンカしたのは高校の時が最後です。社会人になってからはそんなことはなく・・・本心をぶつけたこともなく・・・あ、母親とは1年くらい前に初めてかな?本心を言ったけれど、結局わかってはくれないから、放置しています。

今までの人生でケンカしたことを思い浮かべたら、10回くらいです。他人へ本心をぶつけるっていう経験が少ないように思います。「嫌だ」もそうですが、反対に「好き」とかいうのも・・・

「嫌い」を「苦手」にしてきたから、反対の言葉も弱くなっているのかも知れません。

感じることができなくなっているのかも知れません。

「ありがとう」の軽さにも繋がるような気がします。

今は「みんな平等」なんて無理!と思っています。困っていたら助ける!と思える人とそうでない人がいるので。

だけど、「嫌い」という言葉は頭の中でも、口に出しても使っていないです。知らないところで使ってるかもですが・・・「苦手」とか「面倒」とかは思います。

「好き」と「嫌い」を選ぶには、やっぱり相手をしっかり見て、聞く必要があります。

どこかで選ぶことから逃げている自分がいます。

これは小さなことから選ぶ練習をしないとですね・・・

そして、自分の気持ちに敏感にならないとですね!

今日は結構憂鬱な気分で仕事をしていました・・・そんな簡単にはできないけれど、大事なことなので、挑戦していきます。

映画『聲の形』を観て

Eテレで『聲の形』の映画が放送されていました。一度映画館で観たのですが、ついついまた観てしまいました。裏番組のワンピースのエピソードオブ空島編を差し置いて。

 

身近な人に難聴や聾の方が居ないので、手話はできません。興味はありますが、知っているのは本や映画で観た「ありがとう」と「忘れた」と「覚える」と「またね」くらいです。

地域のサークルで手話教室なるものがあるみたいです。ふれあうきっかけはありますが、ある程度の知識を得ないと踏み出せないです。迷惑とか、自信がないとか、自分を良く見せたいとかそういうのが邪魔してるんだと思います。

 

さて、『聲の形』ですが、原作の漫画の本を持っています。原作でもかなり心を打たれるのですが、映像となると余計に感情移入してしまいます。繰り返し読んだり、観たりすることで、登場人物のそれぞれについて「こうだったのかな」「ああだったのかな」という想像と理解が深まります。それが合ってるかどうかはわからなくても、考えることが大事なんだと思います。

 

私は川井さんと植野さんが嫌いでした。今回映画を観ていると、植野さんの気持ちが少しわかった気がします。川井さんはまだわからないです。

「自分のことが自分で嫌い」と言う西宮さんに怒る植野さんは、「結局あなたは私と話をする気がない」と言います。

話すことに障害がある西宮さんは、自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手で、「ごめんなさい」で済ませてしまうことが多々あります。相手と会話をしようとせずに、「無理」と諦めてしまう。それはやはり良好な関係とは言えないのでしょう。それは現在の石田くんも一緒で・・・「西宮さんを自分の都合の良いように捉えていた」と言います。

聲の形』は健常者でも、本当の意味で聲を聞くことができないのでは?というのがテーマにあります。公式ファンブックにも「「ちゃんと見る」「ちゃんと聞く」というコミュニケーションがテーマ」と書かれています。

実際自分に照らし合わせると、仕事上でたくさんの人に会いますが、「ちゃんと見る」「ちゃんと聞く」ことはしていないです。とりあえず自分の思い通りに動いてくれていれば、ストレスなく過ごせるなぁという程度のものです。結構酷いですね。

自分の中にいるばかりでは、人のことを考えることなんてできないのでしょう。だれだって自分は大事ですが、人間は人と関わらずにはいられないです。自分のことも、人のことも考えられる・・・って難しいです。

よくアスリートの方のコメントで、「みなさんのおかげです」という言葉を聞きます。

私は人からの助けについて、気づいていないことが多いです。感謝の念があまりないです。自分は一人で生きて行くということを意識しすぎてるからだろうか。感謝されるのも苦手だし、するのも苦手って・・・困ったものです。

これもちゃんと人を見られていないのが原因でしょう。

自分のことが嫌いかどうかにおいては、ちょっと嫌いくらいです。昔、小学生の頃の悪童ぶりがこの歳まで尾を引いています。白に黒が混ざると灰色になります。その灰色はずっともう灰色のままで白にはならない。そんな感じです。

でも、過去はやり直せないから、今に生かす。それしかないから、悪童だった頃にしていたことは今はしていません。というかできません。恐ろしくて・・・ほんと馬鹿なことをしました。地元が苦手という理由の一つです。帰りたくはない地元・・・

 

1回目に『聲の形』の映画を観たときに、「ちゃんと見て、聞かないと」と思ったのですが、今回また観るまで忘れていました。

人をちゃんと見て、聞く。そして、自分を知る・・・人との関わりでしか、自分を知ることはできない。

今度は忘れずに実行したいです。

やること多いな~

台風と電車と仕事と

昨日は台風でしたが、休みでした。

今日は台風の影響で電車が一部区域見合わせでした。

無事に出社はできたのですが、まさかの・・・昨日の営業時間が通常営業でした!

JRが18時からほぼ運休を決定していたというのに・・・本部の英断はなかったです。

お買い物に来られるお客様からすれば、ありがたいのでしょうが、働いている従業員からすれば、帰れなくなったらどうしてくれるのか、帰り道に怪我したらどうしてくれるのかという気持ちがあります。

それもこれもライフライン系の仕事をしているが故なのかもしれません。

40歳を過ぎてもこの仕事をしていたくはないなぁとおぼろげに思います。

生活リズムが一定でないので、早死にするかもしれないし・・・

かといって、今のところやりたいことは・・・小さいながらもありますね。

よく一度の人生だからと言われます。その通りと同意しますが、勇気とか自信とかがなくて、動き出せない。

やっぱり否定されたり、失敗したりするのが嫌なんだろう。

いい子の仮面を被ってきてしまったから・・・この年齢になって、失敗するのは恥ずかしいけど、それでも一歩踏み出さないとですね。

小さな失敗や成功から始めるのもいいかもしれない。

仕事では恥ずかしくても、誰も知らないところでの失敗なら恥ずかしくない気がします。

休日、何かに挑戦してみるのは「あり」です。

とりあえず、外出ですね。